前略ごめんください
先日、2024年の映画『Flow』(ギンツ・ジルバロディス監督)をAmazonプライムビデオで観ました。Twitter(X)でどなたかが投稿してくださったのを見て気になっていましたが、とても良かったです。
ノアの方舟がモチーフになっているようで、至る所でその要素を感じ取れます。以下、ネタバレ要素を含んだ感想や考察となりますので、まだ映画をご覧になっていない方はご了承の上お読みください。
物語は黒猫を中心にした動物たちが、同じ船に乗り、洪水に見舞われた世界から新しい世界に到達するまでを描いています。
冒頭、黒猫が人間の使用するであろうベッドの上で窓ガラスに映る自分の姿に驚くシーンがありますが、これは黒猫が本当は人間だった可能性があることを示唆しています。
部屋の中に人間はいませんが、人間が作ったと思われる猫の彫刻が映し出されます。この猫の彫刻が「創造」されたものを象徴しているならば、次元の階層を上げれば、神が創造した人間の姿として猫の彫刻が描かれていると考えることもできます。
黒猫の家の庭にはいくつもの石化した猫が登場しますが、黒猫が川を流れていく途中では、猫の視点からは巨人のように見える「石化した人間」を発見するシーンもあります。また冒頭には、洪水が迫り来る中で「石化した巨大な猫」の頭上で黒猫が右往左往するという描写があります。
この石化した(巨大な)人間または巨大な猫のどちらかを聖書(エノク書)に登場するネフィリムと考えた場合、神に背いたネフィリムと人間たちの石化、そしてタイトルの「Flow」に象徴されるように柔軟に他の動物と共生し流れに乗るということが対照的に描かれていることがわかります。つまり、石化(強硬性や強情性)と流れ(柔軟性や変化)の対比と言えます。
黒猫はしばしば霊的な存在としてシンボル化されることがありますので、黒猫を「魂」としての人間と捉えることもできます。つまり、この物語には人間は登場しませんが、魂として、霊的な存在として登場しているとも言えます。
そして、石化した者たちは最後の審判において堕落者として判を押された者たちであり、聖書におけるネフィリムと人間たちのことであると解釈できます。
「Sky星を紡ぐ子どもたち」というゲームには、原罪というエリアがあり、聖書をモチーフにしていることがわかります。そしてこのエリアでは、石化した星の子たちに自らの光を与えるという自己犠牲がテーマになっています。
旧約聖書における創世記19章では、ソドムとゴモラの滅亡時にロトとその家族は神の使いから逃げるように指示されます。その際に「後ろを振り返ってはいけない」と言われていたのに、ロトの妻は後ろを振り返ってしまい、その結果、塩の柱にされてしまいます。このことから、石化というモチーフは、神に逆らったことによる罰の象徴であることがわかります。
エノク書では、ネフィリムの暴虐によって洪水で滅ぼされたことが記されていますので、堕落し、神に背いたネフィリムと人間たち(猫)の石化は、神による罰であり「停止した魂」と捉えることができます。
「Flow」というタイトルの意味は「流れる」ですが、先述したとおり、石化(強情・強硬・停止)と流れ(柔軟・受容・変化)の対比で描写されています。石化とは神に背き強情さや傲慢さを正せなかった者たちに与えられた停止であり、それに対して黒猫たちは柔軟性をもって共生や調和を選択し新しい世界への流れに乗る者たちです。
共生や調和を選択したから船に乗れたということもありますが、船旅の途中でもさまざまな試練が訪れます。船に乗せてあげるのかどうか、仲間を助けるのかどうか、という試練です。
黒猫とともに船に乗る仲間には、サギのような鳥がいますが、サギは神の使者として象徴されることもあり、導き手としての役割があるように感じられます。また、たびたび船の近くに登場し、最後の場面にも登場する鯨のような巨大生物も同様に導き手や見守り役のような存在だと言えます。
私は、このサギのような鳥と鯨のような生物は、同一存在なのではないかと思っています。なぜなら、新しい土地にたどり着いた場所には鳥の姿はなく、黒猫が導かれるように駆け寄った先に鯨のような生物が地面に横たわっているからです。
どちらも黒猫を助ける描写がありますので、導き手や見守り役と考えても不思議ではないでしょう。最後の場面に鳥が不在だったことと鯨のような生物の命の終わりを連想させる描写は、黒猫たちを導き・見守る役目が完結したことを意味していると言えます。
また、鏡や水面に映る自分自身を見つめる描写も特徴的で、自己と向き合うことができる者であることを意味しているのだと思います。
最後の審判で石化した者たちは、自己と向き合うことができず、強情で強硬で自己を正そうとしない者たちです。船に乗った動物たちはそれとは反対に自己と向き合えた者たちです。鏡や水面に映った自己を見つめる描写には、そうした意味があるのではないでしょうか。
途中で招き入れた犬たちによって、鏡が割られてしまいますが、これは「招き入れる」ということが試練になることを意味すると同時に、共生を選択したということはある意味合格をもらえたということなのかもしれません。
最後、鯨のような生物のそばで黒猫たちが水面に映る自分たちの姿を見つめながら映画は終わりますが、新しい世界でも自己を見つめ、内省しながら正していくことの重要性を言っているのかなと思いました。
聖書は難しくてちゃんと考察できたかどうかわかりませんし、ネフィリムじゃないよ、とツッコミが入るかもしれません笑
兎にも角にも、黒猫ちゃんが可愛いので、私はすっかり心を奪われてしまいましたと最後にお伝えいたします。
かしこ
追伸:2025/07/23
あれからまた、この『Flow』について考えてみましたが、人間不在の描写や鏡や水面に映る姿を見つめる描写は「本来の姿を思い出して」というメッセージもあるのかなと思いました。黒猫の持つ霊的なシンボルから見れば「魂の姿」と言えるかもしれません。または、このままでは、もはや人間を救うことはできないという意味もあったりして……。