前略ごめんください
以前、7月19日の手紙で、『Flow』というアニメーションについて聖書との関連で考察してみました。
この考察は、あくまでも映画について語ったものであり、現在問題になっているような移民政策において「共生」を選択すべきだと言っているわけではありません。(もちろん理念としては理解できます)
昨今、問題になっている移民政策については、私は反対の立場ですし、共生を美しい理想や言葉で飾り立てたり、聖書と結びつけて「だから共生しなくては世界は終わる」という考え方も、そのように考察はしましたが私の考えとは相容れないものです。(しつこいようですが理念としては理解できます)
実際、10年前にはすでに移民政策の危険性に気づいていて、某掲示板に書いたこともあります。(反応はいまいちでしたが)
もちろん、どの国の人々とも仲良くするのは素晴らしいことですし、それを否定するものではありません。
しかし現実的なこととして、スウェーデンでは移民政策により女性の4人に1人がレイプ被害に遭っているというデータもありますし、「生活」という目線で捉えた場合には難しいと思います。
日本人同士であっても、考え方の違いで争っていたり些細なことでトラブルになっているのに(またそれを解決できていないにもかかわらず)、文化的背景の全く異なる人々との共生は夢物語に近いのではないでしょうか。
また、先日X(旧Twitter)のスペースにおいて「内科医の端くれ」さんがおっしゃっていましたが、労働力不足だから移民で補うという発想は、人間をただの労働力の駒としてしか見ていないのではないか、というのはまさにその通りであり、これはフィフィさんもおっしゃっているように新たな奴隷制度であると言えます。
多様性や多文化共生が声高に叫ばれていますが(政府のゴリ押しで)、この地球においてはそれぞれの国にそれぞれの素晴らしい文化があるのですから、多様性や多文化共生はすでに成し遂げれられていると私は考えます。
現在、推し進められている多様性・多文化共生とは、すでに存在する多様な文化を一つの瓶の中に入れてシャッフルし混ぜ合わせる行為だと思います。
そのようなことをすれば、もともとあった多様性や多文化はたった一つの色となり、むしろ多様性を失うのではないでしょうか。
好きな国に移住し、そこで暮らすというのは構わないと思いますし、自然な形で各国の人たちが混ざり合うのは良いと思っています。
しかし、現在行われている移民政策は、不自然な形で強制するものであり、それに対して反発があるのは当然のことです。不安を訴える人々を「排外主義者」として切り捨てることは、心理的な反発をさらに強めることになるだけだと思います。
無理やり共生を強制されれば、これまでは存在しなかった新たな差別や分断を生むことになり、調和からはかけ離れた世界になってしまうのではないでしょうか。
かしこ